プロフィール
山口 周/著作家、パブリックスピーカー、独立研究者。ライプニッツ代表。慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史専攻を修了後、コンサルティングファームなどで戦略策定、文化政策、組織開発などに従事。著書「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」は2018年のビジネス書大賞・準大賞 、 HRアワード最優秀賞(書籍部門)を受賞。
著作家 山口 周
コロナ禍を経て、大きく変わりつつあるオフィスワーカーの働き方に対して、オフィスという空間はいかに進化すべきか。経営におけるアート思考や美意識を持つことの大切さを説いてきた山口 周氏に聞きました。
美術館によく行かれるそうですね。
東京に住んでいたときは都内の美術館によく行っていて、葉山に移ってからは自宅近くにある神奈川県立近代美術館葉山館や箱根のポーラ美術館に行きます。僕にとって美術館というのは作品を鑑賞するというよりは、自分自身を浄化するための場所。自分のなかで心のチューニングが狂ってきたなと感じると整えに行く。教会に近い存在かもしれません。とても静かで抑制された空間だけれど、豊かに語りかけてくるような。
経営者に向けて美意識やアート思考の大切さを説いています。
日本のある実業家が、その人は美術や哲学に造詣の深い方なのですが、経営上ものすごくつらい意思決定をしないといけないときに必ずピカソのある作品を見に行くそうなんです。近年、注目されている「オーセンティックリーダーシップ」のように、あるべきリーダー像を追求するというよりは自分なりの価値観を大切にし、何がいちばん自分らしい振る舞いなのかが問われている時代。そのときにアートは「主観的な内部のモノサシ」を鍛えるきっかけになると思います。
「アートはよくわからない」というビジネスパーソンも多いようですが。
その一方で、好きなラーメン屋さんについて聞くと、だいたいの皆さんが答えられるんです。 専門家の評価も気にせず、自信を持って「自分はこのラーメンが好きだ」と言えるのに、なぜ好きなアートは答えられないのでしょう。それは、ラーメンはたくさん味わってきているから。慣れ親しんでいる量が違うんです。敷居の高さというよりも慣れの問題だと思いますね、アートが日常の中にあるかどうか。
ところで、日本のオフィスワーカーの働き方についてはどう思いますか。
平均的な通勤時間というのは1〜2時間くらいと言われています。ところがコロナで世の中が変わって、「会社に来なくてもいい」という企業が増えてきました。すると、それまで通勤に充てていた分の「時間資本」を手にするわけです。毎日1時間語学を学んだら1年に1言語くらいマスターできるかもしれない。そのくらい膨大な資本だからこそ、働き方のスタンダードがなくなった今、個々人がこれからどういう働き方をしたいかを考えないといけないし、経営者も従業員を会社に通わせることの意味をよく考える必要があります。
働く場所の意味も変わりますね。
仕事の体験価値というのは、「どこで働くか」「誰と働くか」「どうやって働くか」の掛け算です。なかでも「どこで働くか」はとても重要。日本のオフィスの多くは、未だにリノリウムの床と大量の蛍光灯が使われていますが、ああいった空間で暮らしている人はおそらくいませんよね。僕が素敵なオフィスだと思っているのは建築家レンゾ・ピアノの事務所なんですが、イタリアの湖畔にあって、全面ガラス張りで景色が素晴らしい。あんなオフィスなら「来るな」と言われても毎日通いたい。
リモートワーク化が進んでいます。
僕は正直、人が集まらずに仕事はできないだろうと考えています。同時、これまでのなんとなく惰性で会社に集まっていたことをやめて、人が集まることの意味を突き詰めたほうがいいとも思います。毎日1時間も満員電車を我慢して都心のオフィスビルに通い、自席に着くなりパソコンを開いてオンラインミーティング。 ちょっと待って、せっかく物理的に人が集まったのに仮想空間で会話をしているなんて(笑)。もっとリアルなやり取りをしましょうよと言いたいです。
新しい働き方にアートを取り込んでいく可能性についてはどう思いますか。
オフィスにアート作品を貸し出すスタートアップ企業の業績が良いそうです。アートだけでなく、知的な刺激を与えてくれるものが求められているのかもしれません。韓国の企業を訪れたとき、50階建てビルのワンフロアがまるごとライブラリーになっていました。数万という図書が並び、ソファや個人ブースがあってコーヒーも飲めて、まるで蔦屋書店みたいなんです。会社が社員に勉強を促すなかでつくったそうなのですが、日本の企業であの規模のライブラリーは見たことがありません。美術館も知的な刺激が集積する場所ですから、そうしたインフラを働く場所に持っておくのは意味のあることだと思います。
オフィスビル自体をミュージアムと捉えると面白そうです。
われわれ人間が自然に対して刺激や安らぎを得るのは、それらが膨大な情報量を持ち、常に移り変わっていくものだからです。それとは逆に、従来のオフィスは「変わらない」ことが価値であり、問題でもあった。そこから見える景色も、そこにある情報量も変化に乏しく、緊張感や刺激のない環境になってしまっている。リモートワーク化が進み、オフィスに来ることの意味が問われる今こそ、情報量の多いものを投入して、そこで働く人に対して知的なゆさぶりをかけることが重要になってくると思います。もしオフィスに虎を放ったら、ワーカーたちは想像もしない出来事に、心身ともに沸き立つはず。
アートは「虎」になり得るということでしょうか。
人間がつくるもののなかでも特に情報量が多いのがアートです。作家の意図によってものすごい量の情報がそこには折りたたまれている。虎はメタファーですが、そのくらいの過激な刺 激がないと人間の感覚はどんどん退化していってしまう。家畜の脳は野生動物よりも小さいと言われています。われわれ人間の脳も小さくなっている。スマホの GPSが普及したら、かえってアラスカで遭難が増えたそうです。かつては人間の身体全体で地球の情報を読み取っていたのに、利便性と引き換えにその力を失ってしまったわけです。脳の好物は、プレディクタブル(予見可能)なことではなく、偶発性そのものです。ライカのカメラやキャンプの焚き火が人気を博しているのも、偶発性や制御不可能なものを取り込みたいという根源的な欲求の現れではないでしょうか。
茨木のり子さんの「自分の感受性ぐらい」という詩があります。「ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにはするなみずから水やりを怠っておいて自分の感受性ぐらい自分で守ればかものよ」。ある種の厳しさをもった 詩ですが、自分に対して「水やりを怠ってはいけない」ということですよね」。 それは働く環境においても、これからますます求められていくと思います。
取材
山口 周/著作家、パブリックスピーカー、独立研究者。ライプニッツ代表。慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史専攻を修了後、コンサルティングファームなどで戦略策定、文化政策、組織開発などに従事。著書「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」は2018年のビジネス書大賞・準大賞 、 HRアワード最優秀賞(書籍部門)を受賞。